我が陸新紅

                                       -----陸新紅よ、安らかに眠れ

                                     鈴木久吉

一人の中国女性が

足早に私の生活空間を駆け抜けていった。

強烈な疾風を巻き起こし、

私の視界から消え去っていた。

 

八年前、日本に新緑が香るとき、

小柄な陸新紅に出会った。

好奇心と希望に溢れ、

彼女の青春も香り高かった。

 

彼女には別れ難い娘達がいた。

異国の幼い女の子に、

故国にいる娘たちを重ね見て

ひそかに涙ぐんでいた。

 

娘達の将来と教育は

陸新紅の頭から離れることのない

大きな課題だった。

それが日本に来た目的なのではなかったのか。

 

ほとんど化粧ろしない彼女の

ただ一つのおしゃれは

高いハイヒールの靴だった。

カツカツカツと私の歩調に合わせて歩いた。

 

私が敬愛する中国への想いを語れば、

彼女の眠れる祖国愛が呼応して、

誇り高き中国人の威厳をもって歩き

その横顔さえまぶしく、美しくもあった。

 

 日本の生活に溶け込み、

生きるところによき仲間を得、

学ぶところによき師を得、

研究するところによき同僚を得た。

 

陸新紅と夫・劉学東と共にいることは

私には喜びだった。

彼らと食事をし、話をし、「さよなら」を言う。

この平穏な日々の繰り返しが好きだった。

 

それなのに……

 

思えば、劉・陸夫婦は

同じところに難病にとりつかれたのか。

劉の病気が先に顕在化し、

陸が夫の看病にあたった。

 

夫が闘病の末、小康を得たとき、

陸の病気が顕在化した。

なんというこの世の不公平。

二人に対するこの試練は厳しすぎる。

 

病気に対する知識をもたない私には、

治療する技術をもたない私には、

歯がゆく、ただ彼らの闘病を見ているだけであった。

ばんの役にも立てない空しさ、無力感。

 

快復半ばの劉学東に支えられ、

彼女は笑顔で心の平安を見せようとした。

わずかな確率だと言われても、

彼女も私達も手術に大きな期待をかけた。

 

大きな手術を終えて、

初めて陸新紅に会った。

私の顔を見ると、彼女はいった。

「先生、お父さんになって。」

私の心は悲しみでずたずたに断ち切れた。

「胆子大」である彼女のこの弱りはてた心、

  数年前父を失って、今また自ら大病になり、

  何かに縋ろうとする彼女の心の悲しみが胸に迫った。

 

私は無言で頷いた。

微笑を浮かべ、話をしようとしたが言葉が出ない。

心では、父親が病気の幼子を抱きかかえるように、

しっかりと抱きしめてやりたかった。

 

ただ存在しているだけで

彼女の心に少しの平安をもたらすことができるなら、

私は彼女の父親になれるかもしれない。

しかし、なんと頼りない父親であろうか。

 

希望から絶望へたどる二年間、

私は彼女に何をしてやれただろうか。

神仏を知らない私には、

彼女の心を癒し慰めることが出来なかった。

 

夢に見ていた家族の団欒を求めて、

陸新紅が、続いて劉学東が故国に帰った。

新しい家で、娘達と、ときには親族を交えて

八年間の空白を一気に取り戻そうとしているだろう。

 

日本では、私の生活の中では、

彼らの占めていた部分が欠けて空洞になった。

時間があっても松戸に行くことはなくなった。

私には寂  とした気持ちが残った。

 

彼らが去って三ヶ月後、

私は陸新紅に会いに行った。

中国で、杭州の新居で彼女に会いたかった。

彼女の父親も生きていればそう願っただろう。

 

やっと会えたとき、

「あ、先生、疲れたでしょう。」

「陸新紅、会いたかったよ。」

お互いにさりげない会話で手を取り合った。

 

彼女は予想以上にやつれていた。

しかし、その顔を、首を、肩を、足を正視した。

そうしなければ申し訳ない。

彼女の闘病の現場から眼をそらすことはできない。

 

わずか数日で中国を去るのは辛かった。

このまま一緒に居てやりたい。

未練を残し、両手を固く握って別れを告げ、

涙にくれる彼女を後にして日本に帰った。

 

陸新紅の夢を初めてみた。

疲れきって、彼女が一人で我が家を訪れた。

「お父さん、辛いよ」と言いたかったのだろか。

その夜、彼女は再入院した。

 

昏睡状態であるとの知らせが届いた。

翌日、暁とき、陸新紅が再び夢に現れた。

少女に戻った彼女が私をじっと見つめている。

それは娘たちを託した私への別れだったのか。

 

その二日後の夜、陸新紅は逝った。

 

一人の中国女性が

足早くに私の生活空間を駆け抜けていった。

強烈な疾風を巻き起こし、

私の視界から消え去っていた。

 

しかし、

陸新紅の心と姿は

永遠に私の心と記憶からは去らせない。

陸新紅よ、実の父と共に安らかにねむれ。